2007年12月15日土曜日

うんこ論

友達に「さっちんにとって芸術ってなに?」と聞かれて、うーん、と考える。ふだん「芸術」という言葉はあまり使わないので、「アート」に置き換えて話します。

自分にとってアートとは?例えるならごはんかなあ。なくなったら餓死しちゃう。食べたことないものを食べてみたい。違う例えだと、旅でしょうか。たくさんの出会い。時間と共に移り変わる記憶。

「アート」というのは、「あれでもこれでもそれでもないもの。社会の中に、ピッタリあてはまるカテゴリーが用意されていない、しかし生み出されてしまったもの。その集合体の便宜的な総称。」というのが、現時点での私の考え方。だから、「アート作品」を作る、という行為から生み出されたものは、アートではないのではないか、と思う。「なんか出ちゃったんだよぉ~こんなものがぁ~フォーウ!」っていうのがアートな気がするのだ。予定調和はアートじゃない気がする。そう考えると、「アート」作品は非常に少ない。「文学」「映画」「音楽」「絵画」「彫刻」「衣服」などなど、カテゴライズできるものが圧倒的に多い。

何がアートで何がアートじゃないか、という問題は、自分の中ではそれほど重要ではない。というのは、何かを目の前にして、それを「○○だと見なす」のは、個人(あーこの言葉はあんまり使いたくないのですが)のまなざしによるからだ。つまり、見様によっては何でもアートになるし、アートなんて世の中に一つもないことにもなる。例えば、私はホームレスの人たちの格好はアートだなあと感じることが多い。特に冬。寒いから仕方なしに色々くっつけていったら人間彫刻みたいな格好ができあがった、そしてその状態をキープしつつ、移り変わりつつ、動いている。彼らが身に着けているものは服であり同時に家である。その状態に魅力を感じてしまう。そんな呑気な話じゃないぞ、ってことも同時に思いつつ。マルタン・マルジェラの仕事をステキだなと思うのも同じような理由から。ファッションシステムのパラドクスとか、そのあたりも含めて。

文化資本の高い人が現代美術に興味を抱くことが多いのは、いっぱい色んなものを見て、頭の中が大英博物館みたいになってる上で、「やや、コレは今まで経験したことのない感覚だ!新種発見!」っていうことに興奮を覚えるから、だと思う。その意味では現代美術は多分に排他的だし、排他的だからこそ成立する営みなのだ。

実体としてこの世の中に存在した瞬間に、それは過去のものになる。生ものではなくなる。私達が「新種発見!うほほーい!」と小躍りしているとき、目の前にあるのは死骸なのだ。・・・えっと、言いたいことが全然うまく言えていません。こうやって言語化することで、お皿に盛られているものと消化されたあとの排泄物は見えるけど、肝心なのは食べてる瞬間です。みたいなことが言いたかったのです。(そんなわけで思いついた今日のタイトル!食事中の人ごめんなさい。)パフォーマティブなのが重要なのだ。「パフォーマンス」になった途端、パフォーマティブではなくなるのだ。死んでしまうのだ。(この「死」というのもまた文章で表現するにはやっかいな問題で、「死んでいる」状態はイコール「生きている」ことでもある。「死んだ人」は「生きていない人」なんだけど。死んでいるか生きているか判断するのはこの世に残った人間で、そう考えると、死とはすなわち生である、ということになる。)

修論の息抜きに、指導教官の過去の雑誌記事を読んだ。論文で言いたいことが半分くらい書いてあった。ガーン。思考の枠組みは、結局、過去にインプットされたもののリミックスでしかないのかもしれないな。こんなこと言うとまた修士の分際で・・・って話になるんでしょうけど。ただ、リミックスという手法自体はすでに過去のものだけれど、どの曲をどの曲とつなげるか、どこでフェードイン/フェードアウトするか、どの音を強調して、どこを弱めるか、ハコにどんな客がいるか、彼らのノリは、とか、そこらへんは「いま・ここ」にしかない。無理矢理つくったアウラみたいな感じかもしれないけど。

そんなこんなで、あーでもないこーでもないとウダウダ考えつつ、本日もFRUiTS三昧でした。ようやく写真の分析が終り、一章が完成できそうです。

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